59. 終戦記念日

 61回目の終戦記念日にあたり、そろそろ私も今まで避けて通っていましたが、戦争末期のことをすこし語ろうかと思います。今朝のTVはどのチャンネルでもずっと小泉首相靖国神社参拝でしたね。こんなに大騒ぎする必要があるのうでしょうか?


 同窓生のブログで「カコちゃん」が大変ご苦労なさった体験を語っておられ、コメントにも長崎で被爆の経験者からの書き込みがありました。皆さんそれぞれの思いでこの日を迎えておられるのでしょうね。


 私は福岡県の大牟田市に住んでおりました。 三池炭鉱などがあるので、4月から何度も空襲をうけておりましたが、遂に1945年7月27日に家が全焼してしまいました。昼間だったと思いますが、慣れっこになった空襲警報に押入れから掛け布団を一枚取り出し年子の妹と庭に飛び出し池にジャボンとはいり… トリニトロンとかいった爆弾が花火の反対のように空から降ってきてきれいな炎で周りを明るくしすぐその後に本物の爆弾が降ってくるのです。 バケツリレーで少しは消火につとめたような気がしますが、父の「もう駄目だ。逃げろ」という声に近くの畑に逃げました。どのくらい時間がたったのでしょう。 飛行機の音がしなくなってに家に戻り、全壊した我が家を呆然として見つめている父の姿が目にやきついています。顔のあちこちに火傷して、自分の汗の結晶の無残な終末を見つめていました。 今思えばどんなにか残念だったでしょう!坂の下に川が流れていましたが、水を求めて川に逃げた人たちの無残な姿は忘れようとしても忘れられない光景です。一歩間違えればわたくしも同じ運命をたどっていたことでしょう。


 幸い家族はみな無事でした。 それから防空壕での生活・整理が始まりました。その間また飛行機が飛んできて機銃掃射をうけたこともあります。上を見上げたらパイロットの顔も見えるような距離でドギモをぬかれたことも鮮明に覚えています。運よく義兄がすぐ近くの会社の社宅にいて、そこは類焼を免れたので私たち一家は一時そこに避難しました。


 それからも空襲は続き、ついに父は自分の生まれ故郷の宮崎県の飫肥(今の日南市)に疎開する決心をしました。夏休みなのでお友達との別れもなく、誰の見送りもなく8月の始めには戦災者として大牟田に別れをつげたのです。


飫肥に出発の日の前日から私は扁桃腺炎で40℃の発熱。それでも出発は延ばせなかったようです。途中都城でも飫肥についてからも空襲があったそうですが、朦朧としていた私には何の記憶もありません!かえって幸せだったかもしれません。駅についてからは父と妹が疎開先の父の実家にリアカーを取りに行き私と荷物を載せて疎開生活がはじまったのです。